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2015年5月30日土曜日

2015.05.30 一ノ倉沢衝立岩中央稜・衝立尾根・国境稜線

記録:白石薫平

メンバー
飯泉和史(CL)、白石薫平

2015年5月30日
晴れのち曇り、夕方に小雨
谷川岳ロープウェイ5:30--6:00一ノ倉沢出合6:20--6:38テールリッジ末端--7:11中央稜基部8:00--11:00衝立の頭11:20--13:10懸垂岩のコル13:25--14:30五ルンゼの頭--15:00一ノ倉岳15:15--15:50オキの耳--16:00トマの耳16:10--18:30谷川岳ロープウェイ

剱岳での夏山合宿を見据えて、昨年初めて経験した一ノ倉沢に、今年もOBの助けを借りて挑むことにした。入門ルートである衝立岩中央稜(以下、中央稜と略す)のあと国境稜線まで抜けることで、ちょっとしたことではヘコタレない力をつけようと意図したルート選択をした。

5月29日(金)21時30分、駒場に集合し谷川岳へ向かった。途中のパーキングエリアで仮眠を挟みながら、30日(土)2時頃ロープウェイの駐車場に到着。エレベーターホールで泥のように眠った。

5時頃起床し、5時30分出発。指導センターで計画書を提出し、一ノ倉沢出合までもくもくと歩いた。出合からは大岩壁が良く見え、車道歩き中に感じていた寝不足と気だるさが吹き飛び、登攀欲を刺激された。ハーネスを着け、6時20分出発。雪渓は先週よりも薄くなっていたが、出合から使うことができてアプローチは楽であった。テールリッジ末端まで快適に上がり、踏み跡に入った。昨年6月と10月に来たときとは打って変わって岩が乾いており、怖い思いをせずにぐんぐん登ることができた。テールリッジ中間のフィックスロープが張ってある箇所は、このロープにカラビナを通して通過した。衝立岩雲稜第一を登っているパーティーを眺めながら、中央稜基部に到着。あまりにもあっさりと着いてしまい、最初は基部までまだ登りが残っていると勘違いしてしまった。中央稜には既に少なくとも3パーティーは取り付いており、烏帽子沢奥壁に転戦することも検討したが、衝立尾根は捨てがたく中央稜を選択。先行パーティーを待って8時に登攀を開始した。中央稜はツルベで登り、奇数ピッチは飯泉リード、偶数ピッチは白石リードである。
1ピッチ目
フェイスを左上するピッチだが、さしたる困難はなかった。
2ピッチ目
烏帽子沢側の凹角を登った。後続パーティーに煽られ、先行パーティーがいなくならない内に我々もロープを伸ばし始めた。ビレイ点には既に2パーティーもいて混雑しており、彼らに使われていなかったハーケン1本と立木でビレイした。
3ピッチ目
出だしのトラバースが緊張するが、以降は快適なフェイスだった。このピッチで1パーティー抜いた。
4ピッチ目
フェイスから衝立岩側の凹角を登る核心ピッチ。先行パーティーがいなくならない内に我々もロープを伸ばしたため、プロテクションが取りづらかった。
5ピッチ目
烏帽子沢側のルンゼを登った。ビレイ点は日陰になっており、水分補給もしたので、少しだけ暑さから解放された。このピッチで1パーティーを抜いた。
6ピッチ目
クラックが走るリッジを登った。折角カムを持ってきたのだからと思い使用したら、クラックがフレアしており回収に手間取らせてしまった。先程抜いたパーティーにナッツキーを借りた。
7ピッチ目
段々と草付きが増え始めた。このピッチで1パーティーを抜いた。
8ピッチ目
衝立尾根が見える地点まで右上気味に登った。
9ピッチ目
少し登ってからクライムダウンをして、尾根に乗った。
衝立尾根には11時に到着。待ち時間込みで3時間で登れたことになる。尾根上で昼飯を食べた。

ここから衝立尾根上は、ロープ1本でアンザイレンし、スタカットで進んだ。まず白石リードで、凹状岩壁終了点まで細い尾根歩き。次に飯泉リードで簡単な岩登りを含むピッチを越え、白石リードで凹角を出てからフェイスを登るピッチをこなした。凹角を出る部分が難しかったが、出口にあったホールドを掴み、腕力と服の摩擦でずり上がった。この辺りで、衝立尾根は難しい岩場は無いが落ちたら一溜まりもないという点が剱岳八ツ峰に似ている、という会話を交わした。

飯泉リードの次ピッチで笹藪を抜け、白石リードで懸垂岩上に出ようとした。まず階段状の岩を3mほど登り、左にトラバースしようとした。残置プロテクションは無く、ランニングは取れていなかった。脚を開いて突っ張ったときにホールドが壊れ、4mほど墜落した。背中から落ちたためザックをクッションとして一回転し、ビレイ点と同じ高さのブッシュで止まった。落ちた拍子に歯で右上唇を切った他は、左膝内側と右足首外側の擦り傷が出来ただけで、大きな怪我がなかった。しかし筆者にとって本チャンでの初めての墜落で、もちろんかなり気が動転した。筆者は冷静になろうと心がけたが、どうしてもその後のロープ操作等に不手際が出てきてしまい、飯泉から「落ち着きな」「気を強く持たないと死んでしまうよ」と言い聞かされた。この件に関する考察は、本稿の最後に記載する。5分間ほど休んで気持ちを落ち着け、リードを交代して懸垂岩に上がった。飯泉は右へ抜け、墜落箇所では頼りなさげな立木であってもランニングを取った。

懸垂岩から10mほど懸垂下降し、アンザイレンしたまま烏帽子沢各ルートの終了点まで20mほど移動した。計画していた南稜上部2ピッチを登る気力はもう残っていなかった。ここでロープをしまい、靴を履き替え、笹薮の中の踏み跡を辿って歩き始めた。5ルンゼの頭までの間でも簡単な岩登りをこなし、5ルンゼの頭の手前で再びロープ1本をつけて靴を履き替え、飯泉リードで最後の岩登りをした。ここから一ノ倉岳までは踏み跡を辿るだけであった。笹藪を漕ぎながら心に去来したのは、岩登りで死ぬのは一瞬なのだろう、あっという間に頭をぶつけて意識を失ってしまうのだろうといった不吉な考えばかりであった。30分ほどでよく整備された国境稜線の登山道に飛び出し、一ノ倉岳の山頂で握手を交わした。やっと危険地帯を抜けたという安堵感が非常に大きかった。

オキの耳、トマの耳へと歩き始めると、東面とは対照的な万太郎谷のなだらかな地形が望まれた。ところが、徐々に越後側から雲が湧き始めて視界を覆い、冷たい風が吹き抜けるようになった。トマの耳まで1時間弱で移動し、西黒尾根の下降を始めた。下り始めには少々雪渓が残っていた。ガレ場の西黒尾根上部は慎重に下ったが、疲労が重なり、筆者は何度か転んだ。樹林帯に入った頃には小雨が降り始めたが、幸い本降りにならない内に下り切ることができた。

車に戻り、鈴森の湯で風呂に入ってから帰った。途中、仮眠を挟みながら帰ったため、駒場に到着したのは31日(日)3時15分だった。

さて、まず墜落について考察する。要因は以下のような事項であると考える:
  1. プロテクションを取っていなかった(取れていなかった)こと
  2. 元々ランナウト気味に登っていたこと
  3. 脆い岩への対処が未熟だったこと
  4. 暑さと寝不足で注意力が低下していたこと
元々ランナウト気味だったことは、中央稜4ピッチ目登攀後に飯泉から一応指摘されていたことである。墜落したピッチについて言えば、残置プロテクションが無かったことが主要因だが、きっと簡単だから落ちずに登れるだろうという驕りがあったかもしれない。脆い岩への対処としては、本チャンの岩は壊れる可能性があるという認識が甘かったことが根本にあり、御座なりな選択に繋がったと言える。また、プロテクションが取れていないにも関わらず大胆なルート取り・ムーブをしたという点にも、本チャンへの認識の甘さが見て取れる。暑さと寝不足については、ツルベでの中央稜登攀中から直射日光を浴び続け、前夜は数時間の仮眠しか取っていないということの現れである。

以上の要因への考え得る対策としては
  1. 出だしはすぐにランニングを取る。ランニングの間隔はなるべく明けない。
  2. ランナウト時には最大限のアラートを発し、岩の様子が違う箇所を回避したり、大胆なムーブは避けたりする。
  3. 岩は欠けるものだという認識を心に刻む。
  4. 注意力が落ちていると感じるときは、パートナーや他パーティーに遠慮せず休憩する。休憩できない場合は栄養ドリンクを飲んで一時的に集中力を取り戻す。
といったものである。

今回は、良好なコンディションの一般ルートならばツルベで十分に登れるということが分かり、あまり人の通らない衝立尾根にトレースをつけられたという点で、成果の多い登攀をすることができた。しかしながら、重大な事態に繋がりかねない墜落を引き起こし、その後の精神的リカバリーなどの対応は完全にOB頼りだったこともあり、素直には喜べない心境である。つまり、クライミング自体の成長は認めるが、山登りとしては一から修行し直しだと一ノ倉沢に突きつけられた気分なのである。

TUSACは現在、山での登攀技術向上に資するという認識の下、効率よく訓練が出来るジムやゲレンデでの練習に傾き気味である。不確実性の低いこうした場所で登れない者が本物の岩壁を登れるはずがないので、この手の練習は有効ではあるが、万能ではないということが今回の墜落でよく分かった。この意味で、今回の教訓は現在のTUSAC全体にとって意味のあるものであると考える。教訓を共有し、安全な活動を続けていきたい。

2015年5月23日土曜日

2015.05.23-24 谷川岳雪上訓練

作成者:中山省吾 
山行名:2015/05/23-2015/05/24実施マチガ沢雪上訓練 
メンバー:伏見修一(L、3年)、中西隆史(雪訓担当、2年)、金山慎介(4年)、土井崇史(4年)、白石薫平(3年)、黒沢隆浩(2年)、阪本豪(2年)、杉山普(2年)、中山省吾(2年)、池田航(1年)、岸本卓也(1年)、岸元士(OB)、久村俊幸(OB) 


隊の記録 
①計画通りに遂行できた。 
②初日の行動が遅くなったため、巌剛新道へは行かなかった。その代わり、初日下山後にマムシ岩と一ノ倉沢の二つのパーティーを出した。2日目は一部が巌剛新道へ行った。 
③特記事項なし。 
④予定されていた訓練事項はすべて行われた。2年生、特に中西は訓練において中心的な役割を演じた。1年生のよい手本となっただろう。滑落停止は2年生も含めて充分練習できた。ザイルワークは1年生の理解が足りないところがあり、さらなる習練が求められる。岩登りまでにシステムの確認が必要だ。 


記録 
5月23日晴れ 

6:30久村車池袋発-10:00久村車谷川岳ベースプラザ着-11:06出発-11:35テン場-12:00出発-12:20水汲み休憩12:30発-12:40訓練場着、雪上歩行-13:05ピッケル制動-13:30巌剛新道取付附近まで登る13:50取付発-13:50訓練場帰着・撤収-14:00発-14:25テン場着-14:30パーティー別行動-15:00一ノ倉沢テン場-15:20一ノ沢出合-15:27一ノ倉沢テン場-16:00テン場-16:40テント設営-17:15エッセン開始-18:40夕食-20:00就寝 


白石・杉山は電車で土合駅まで行き、ロープウェー駅に9:30頃集合した。 
金山・土井・伏見・阪本・中西・中山は池袋に6:30集合して久村OBの車で出発した。 
黒沢・池田・岸本は駒場に6:30集合して岸OBの車で出発した。谷川岳集合が1時間ほど遅れ、初日予定されていた巌剛新道の中止は、ロープウェー駅の時点で決定した。テン場は去年と同じ、マムシ岩の近く、新道の道標の下にした。各自サブザックの準備をし、マムシ岩の前で集合。水汲み、体操、共同装備の確認をしたのち出発した。この日は天気が良く、服一枚でも暑かった。雪渓に出る直前で中山、阪本、岸本が水を汲み、小休憩をとった。訓練場はS字峡のさらに下とした。土井・白石が雪濠を堀り、滑落停止用のザイルを張った。各自サブザックを上部に生えていた木の根本に置き、空身で歩行訓練を行った。当日の訓練ではアイゼンを用いなかった。雪面は適度に固く、キックステップがよく効いた。続いてピッケル制動を行う。参加した2年生と1年生全員が順番に滑落、停止を行った。最初の訓練としてはこれくらいでいいのだろう。雪濠では土井・金山・伏見・白石がザイルを持って、滑落に備えていた。様々な体勢での滑落を想定して、1、2年生ともピッケル制動に励んだ。帰幕する前に雪上歩行の練習をかねてS字峡の中部まで登った。1年生を率いたため傾斜の急な上部には行かなかった。雪渓の左岸の方は落石の筋となっていて大小の石が雪に埋もれていた。帰幕の時の1年生はしっかりと雪渓を降りており、滑落しなかった。テン場に着いて時間があったので、マムシ岩での登攀訓練と、一ノ倉沢への雪渓下見(白石は5月30日に一ノ倉沢中央稜へ向かう)を計画し、各人の希望をとってパーティーを出した。マムシ岩(伏見・土井・阪本・黒沢・池田・岸本)、一ノ倉沢(白石・杉山・中山・岸・久村)の編成である。当日予定されていた巌剛新道は翌日に延期することになった。金山と中西は、夜のたき火に備えて薪を集めた。一ノ倉沢のテン場には、テントが3、4張あった。初めて見た一ノ倉沢は想像していたより大きく、近づくほどに現れる峻嶮な岩場はまさしく魔の山にふさわしいように思えた。白石・杉山は運動靴であったため、あまり上部へは行かずに下山した。白石は下山時に軽アイゼンを装着した。テン場に着くとマムシ岩組は登攀中であり、金山・中西は合流していた。白石も合流した。テン場に戻ると、中西と黒沢の食料が食い荒らされていた。おそらく猿だろう。中西は食料をほとんど失ったようだ。マムシ岩組の帰幕を待ってテント設営をした。今回はV6とV4が2つだった。OBは各自テントを用意していた。夕食は1年生を中心に2年生の指導の下カレーを作った。火の勢いが弱くなかなか米が炊けなかった。20:00に就寝した。 



5月24日晴れ 

4:30起床-5:25朝食-6:15出発-6:55前日の雪濠-7:10訓練場着・アイゼン歩行-7:48休憩-7:55ピッケル制動-9:00休憩-9:15スタカット練習-11:05下降・トップ落ち練習-11:20スタカット練習(一年生)-12:00下山開始-12:20テン場発-13:00ロープウェー駅着・解散 

起床後、V6のメンバーが朝食を担当した。外はテントの中で思っていたより冷え込んだ。水がなかなか沸かないのはコンロのせいかガスのせいか。沸いたらすぐに棒ラーメンができる。2つのコッヘルのうちの1つが調理に失敗して、麺がドロドロになった。こんなひどい棒ラーメンは久しぶりだ。前日と同様にマムシ岩の前に集合し、体操してから出発した。前日の訓練場よりさらに上、雪上歩行で行ったあたりまで行き、ザックをおろした。土井・白石が雪濠を掘り、ザイルを張る。金山・杉山は巌剛新道へ出発した。OBの二人は雪渓上部で落石監視にあたった。この日はアイゼンを用いた歩行を練習した。休憩の時にアイゼン着脱の練習を挟んだ。ピッケル制動は前日より傾斜が急で、アイゼンを着けていたので1年生は前日より難儀しているようだった。しかし練習を続けるうちにだいぶ慣れたようで、しっかりピッケルが刺さるようになった。スタカット練習は、最初2年生(黒沢、杉山、中山)が一連の流れを見せながら上まで登った。トップの確保にはATCを用い、フォローの確保にはルベルソを用いた。雪渓上部では滑落したトップを、力を逃がしながら停止させる訓練を参加した現役全員が行った。ここから半マストによる下降を訓練した。1年生はATCによる懸垂下降の練習ができなかったので幾分心配があったが、何とかできていたようだ。雪濠まで戻り、1年生のみでつるべの練習をした。ビレイの準備ができる前にスノーバーを取ってしまうなど、まだまだシステムの理解に不足があった。自分が去年雪訓したときも結び方や、ビレイの取り方など細かいことばかりに注意が行って、システムの理解までに気を配れなかったことを思い出す。上まで行ったら撤収作業に入る。テン場では朝食のゴミが荒らされていた。荷物をまとめ終わった人からまとまって下山した。ロープウェー駅で集合してその場で解散した。久村車は銭湯に寄り、池袋に着いたのは18:30であった。 




2015年5月5日火曜日

2015.05.04-05 奥穂高岳

奥穂高岳山行報告
2015/6/26作成
作成者:中山省吾
山行名:2015/5/42015/5/5実施 GW穂高
メンバー:金山慎介(L,4)、塚本宇信(4)、中西隆史(2)、中山省吾(2)

記録
54                  
6:00上高地バスターミナル出発 (朝食)6:42明神館6:52発-6:37徳沢6:48発-8:44横尾9:00発-10:05 (昼食)10:15発-10:40本谷出合-11:10休憩11:19発-12:00涸沢テン場着テント設営-16:30夕食-18:00就寝

前夜発で新宿から夜行バスで上高地へ向かう。まだ雨は降ってなかった。私たちの他に20人くらいの登山客がいた。雨が降る予報だったので、雨具とスパッツを着けて出発した。もうすぐ着くと言う中西に騙されながら、横尾までは平坦な夏道。道は自動車が通れるほど広かった。横尾を過ぎた辺りで雨が強くなってきたので、ザックカバーを着けた。どこからともなく装備が濡れていき、肌にウェアが張り付く。足元がぬかるんできたが、しばらくすると雪渓に入った。昼食をとっていると、外国人の親子が雪だるまを作って、登山者に採点させていた。ここら辺から斜度が増していった。テン場に着いた頃には雨がかなり強くなっていたが、風はあまり強くなかった。結局この日はアイゼンを着けなかった。テン場には30張くらいテントが張っていた。天気が悪いせいか、4日に下山する人が多かった。急いでテントに入った。サイドポールを持ってこなかったためか、フライの裏からテントに水が伝い、テントの裏からテントの中に水が入ってくる。13:00にテント代の集金があったので、金山が雨の中いやいや出掛ける。ついでに水を汲んできたので非常に助かった。お湯を沸かしながら濡れたものを乾かした。テントの中の窪地には水がたまり、何度も靴下を水没させた。銀マットのせいで、どこに水がたまっているのか分からなかった。お茶を飲んで何人かは寝始めた。風が強くなり、浸水も激しくなる。テントの壁を拭く作業も飽きたのでやめた。雨風の弱まった時を見計らって、トイレに行く。寒くなってきたので夕食を作り始めた。寄せ鍋を作っている間、中山が天気図を書いた。今晩中に低気圧が抜けていくと、願った。寄せ鍋は珍しく美味しい夕食だったが、中西は春菊が嫌いらしく、下山中も不服そうだった。明日の起床時間を決めて就寝した。テントからの飛沫が顔にかかるので手ぬぐいを顔にかけた。風雨は強くなるばかりだった。

55                   曇のち晴
3:30起床-4:10朝食-5:25出発-6:20小休憩-6:58穂高岳山荘 (休憩)8:10奥穂高岳山頂-9:21穂高岳山荘9:45発-10:26涸沢テン場-11:00パッキング開始-11:25小屋で休憩12:08発-12:40本谷出合-12:50 (休憩)13:07発-13:55横尾14:07発-15:00徳沢15:10発-15:54明神館16:05発-16:49上高地バスターミナル


一晩中寒く、眠りは浅かった。他の人は暖かかったと言う。1人だけ押し出されていたようだ。シュラフが濡れていた。昨日の荒天が嘘のように風が弱かった。うどんを食べて、ザブザックを作る。この日はハーネスとアイゼンを着けた。出発する時には、すでに何パーティーかが小豆沢を登っていた。小豆沢下にいた2人の山岳警備隊から小豆沢のザイテングラート寄りを行くように言われた。警備隊のうち1人は我々の写真を撮った。雪はよく締まっていてアイゼンがよく効いた。1時間半ほどで穂高岳山荘に着いた。風が強く、しばらく休憩できないかも知れないので軽食をとった。防寒具を着て登り始める。最初の岩場は、日和田山のアイゼン登攀の練習を行っていたため安全に通過できた。岩場を登り切ると雪壁に出た。多くの先行パーティーが見えた。雪面は適度に堅く、ステップも切ってあったのでピッケルとアイゼンだけで登れた。上からこぶし大の落石があり、怖い思いをした。尾根まで登ってからは岩稜が続く。ここから渋滞が起きていた。途中にあった雪壁もピッケルとアイゼンだけで登れた。山頂には20人ほどいた。天気は良く、槍やその先の北アルプスの山々がよく見えた。込まないうちに下山する。途中、登ってきた人に小豆沢で事故が起きたと聞いた。後で調べると、小豆沢で600m滑落して亡くなったそうだ。合掌。1時間ほどで穂高岳山荘まで戻ってきた。下山にもザイルは使わなかった。写真を撮ったり、食事したり、山岳警備隊を見たりしながら休憩した。小豆沢を下る頃には、雪が融けて下山が楽だった。テン場に着いて、テント内の物を干しながら休憩。涸沢小屋の方にはスキーヤーがいて楽しそうに滑っていた。いつのまにか空が晴れ渡っていた。小屋で飲食してこの2日の労をねぎらう。ヒュッテでは鯉のぼりが泳いでいた。下山は雪渓をまっすぐ降りる。本谷出合の先で雪のブロックが崩壊しており、流出した枝や倒木で道が塞がっていた。スキーを担いだ人ともすれ違う。軽快な下山は横尾でおしまい。ここから先、3時間の平坦な道をとぼとぼ歩く。行きより重く感じるザックを背負って、悪態をつきながら何とか上高地に到着した。松本までバス、電車を乗り継いで解散した。

2015年5月2日土曜日

2015.05.02-04 毛猛連山

記録:白石薫平

メンバー
土井崇史、白石薫平(CL)、杉山普、三浦玲児

2015年5月2日(土)
晴れ
10:30奥只見丸山スキー場10:40--11:10第2リフト終点11:15--12:13 1225標高点--13:09 1376標高点13:25--15:20未丈ヶ岳15:30--16:15赤柴山手前鞍部

2015年5月3日(日)
晴れ
3:30赤柴山手前鞍部4:46--6:09赤柴山6:21--7:21大鳥岳7:41--8:32 1239標高点8:45--10:44毛猛山手前鞍部11:05--14:07毛猛山14:30--15:15 1268標高点

2015年5月4日(月)
晴れのち曇り、昼過ぎに一時小雨
3:00 1268標高点4:20--6:43 1176標高点6:52--7:45前毛猛山手前鞍部8:02--9:40前毛猛山9:47--10:35 1047標高点10:46--11:57 962標高点12:10--12:25六十里越12:30--13:05国道252号線13:15--16:02大白川

発端

南会津と呼ばれる山域は、訪れる者が限られ、街の喧噪とは無縁の場所である。ダムが作られて、林道も出来た現代とはいえ、日本アルプスや八ヶ岳といった山域とは全く異なる顔をして、悠然と構えている。私にとっては、登山を始めた頃に抱いていた冒険への憧れを掻き立ててくれる、魅惑的な山域であった。

2015年5月の連休は、その山域に初めて足を踏み入れることに決めた。これには幾つかのきっかけがある。まず、昨年9月に登山体系を眺めて空想を広げていた頃、OBから白戸川周辺沢登り山行の話を聞いた。そして同じ時期に、古本屋で『岳人』2013年4月号を立ち読みしたところ、服部文祥の南会津縦断山行の記事が目に入った。これら一連の出来事に触発され、連休の機会を生かして南会津に足跡を残そうと私は決意したのだ。初めての南会津には、残雪期に比較的歩かれている未丈ヶ岳・毛猛山・六十里越の稜線に照準を合わせた。

しかし、私にとっていくら魅惑的とは言え、辺鄙な場所にあり、長くて藪漕ぎもあろうという計画である。同行してくれる人などいるのだろうかと恐る恐る部会にかけたが、幸運なことに4人パーティーを組むことができた。偏奇な趣味を持つ同志に感謝する。

実行に移すにあたり、不安な点はいくつかあった。一つ目は安全圏からは隔絶された場所であるということ。徹底した軽量化で対策することにした。二つ目は土地勘のない場所で、藪漕ぎをする可能性が高いということ。これについてはOBの大谷尚史さんにGPSを借りることにした。三つ目は雪渓の登降に関する安全な判断ができるかということ。4年の土井がメンバーに加わってくれたので、協力して判断するようにした。特に軽量化については綿密に考えた。狭さを承知で4人用テントを選び、コッヘルも食器で代用した。シュラフはもちろん薄い夏用だ。食糧も乾燥米を中心に計画した。

なお、この記録文で登場する地名は、すべて日本登山体系に沿ったものにする。

5月2日

集合は、奥只見丸山スキー場の無料送迎バス内とした。3人は浦佐まで新幹線で行ってバスに乗車したが、深夜に小出ICから小出駅まで50分間歩いて乗車した猛者もいた。天気予報では、2日と3日は晴れ、4日午後から崩れるということだったので、初めの2日間でどれだけ進めるかが鍵だとバスでは話し合った。スキー場に到着し、リフト券を2枚購入して第2リフトの終点まで上がった。

歩き始めはなだらかなコウノキ沢の源頭部であり、方向だけ見定めて自由に歩いた。我々と同様に未丈ヶ岳方面に向かう3人パーティーと同時に出発したので、彼らがルート選択の助けになった面も大きい。まずは源頭部の緩傾斜地の西端にある1260mのピークに登った。そこから登路を北上させると少し藪になったが、すぐさま雪渓に戻った。1225標高点から丸山と日向倉山・未丈ヶ岳を繋ぐ稜線に乗り、西へと歩みを進めた。そして日向倉山・未丈ヶ岳の稜線に合流する1376標高点で休憩し、再び北上した。ここからの下降で藪が出現し、東側の雪渓と藪とを行き来しながら登った。未丈ヶ岳まで標高差100mを残して最後の休憩し、山頂直下の藪に突入した。露岩を登ったりもしながら、山頂付近にたどり着いた。GPSを用いて山頂を探し、登頂を果たした。


未丈ヶ岳北側の気持ちの良い斜面


山頂からの下りはなだらかな雪面で、快適に下ることができた。下りきったところにある赤柴山(1352標高点)手前の鞍部の雪渓上に幕営した。湿った雪で水作りがはかどり、19時には寝ることができた。満月の夜は全く寒くなく熟睡した。

5月3日

3時30分に起床した。朝食はお湯をかければ食べられるメニューとしていたので、起床後1時間15分で出発できた。

赤柴山への登りは藪の中を進んだ。途中で急な雪渓が利用できたので、アイゼンをつけて登った。何の標識もない山頂を後にし、雪渓を伝って大鳥岳に向かった。大鳥岳から北も快適な雪渓を使え、見渡す限りの南会津の山々の景観もあり、非常に気分が良かった。もう一度稜線上で休憩した後、雪渓上の足跡が東側斜面に下りていたので我々もそれに従った。すると急傾斜の雪渓のトラバースが出現したので、アイゼンを履いて一人一人渡った。その後は笹藪を下りたり雪渓を登り返したりして、ようやく毛猛山手前の鞍部に到着して稜線上に復帰できた。藪の中では土埃が酷く、私は鼻水が垂れて非常に困った。歩行中は紙で鼻をかむのが容易ではないため、笹の葉や樹林の葉に顔を埋め、葉で鼻水を拭って解決した。


毛猛山


ここからは毛猛山への長い登りだが、気温が上昇していたため非常に辛かった。白石を初めとして全員が熱中症気味になりながらも雪渓を登れるだけ登り、最後の密藪に突入した。毛猛山直下の藪が全行程中で最も酷かった。笹と石楠花が混在したもので、背丈を越える藪を30分は漕ぐ羽目になった。途中、前方から人間の声が聞こえ、未丈ヶ岳手前で3人パーティーと別れて以来の別パーティーと遭遇するかと思ったが、藪が濃すぎて姿を見ることはできなかった。ようやく藪が終了し、狭い山頂に到着した。立派な三角点が鎮座しており、担ぎ上げた際の苦労に思いを馳せた。山頂から見渡せる未丈ヶ岳からの稜線を眺めると、岳人マイナー12名山の一つに立てたという達成感が大きかった。しかし、六十里越まではまだ黒々とした稜線があるのだと自分たちに言い聞かせ、下降を開始した。雪渓を下りきると1268標高点の手前に到着した。ここで標高点に土井と三浦が登って先の稜線を見渡したが、次にテントが張れそうな雪渓まではまだ距離があるということで、幕営を決めた。昨晩よりは寒い夜で、夜中には風も吹いていた。

5月4日

朝は3時起床とした。天気が持つという午前中の内に国道252号線まで行きたかったからである。

出発してからしばらくは藪を漕ぎ、45分後に急な雪渓に出た。朝で雪面が硬く、アイゼンを履いてクライムダウンを交えながら下降した。続く藪尾根を歩いていると、5時40分にボロボロな露岩の斜面に出た。クライムダウンでも下りられないことはなさそうだったが、疲労した身体と大ザックであるから、懸垂下降することにした。支点は近くの立木に取り、三浦以外は下降器を持っていなかったので、半マストで下った。白石が始めに下り、三浦、杉山、土井と続いた。10mの下降をこなし、再び藪尾根を歩き出した。この尾根上には石楠花が麗しい花を咲かせていた。初めは踏むのもどうかと思い避けていたが、直にそんなことには構っていられなくなる。花だろうが何だろうが、行く手を阻むものは容赦なく踏み荒らし、先を急いだ。そうして前毛猛山手前の鞍部を通過し、登りに入った。雪渓から藪、また雪渓へと登路を取り、山頂直下の藪を漕いで前毛猛山に登頂した。気温は高く、風も通らないため、早々に山頂を後にした。


車道が見えた!

前毛猛山からの下りは、疲労と暑さと藪とが重なり、最も精神的に辛い区間だった。これまでの稜線に比べると踏み跡は少々見えていたが、あまり助けにはならなかった。空が曇り出した頃、六十里越に到着。到着と同時に雨が降り始め、雨具やザックカバーの支度を整えた。降ったり止んだりの天気の中、整備された登山道を使って下降を開始した。これまでの藪尾根とは大違いで、先人への感謝の念を抱いた。登山道の沢横断部分には雪渓が残っており、トラバースには気を使った。そして13時過ぎ、ついに国道に降り立ち、重圧から解放された。ここからは、車が通れば大白川までヒッチハイクでもと思ったが、車両通行止めのため実現せず、3時間しっかり歩くことになった。疲れた足には辛い歩きだったが、雨が降らなかったことが唯一の救いだった。心を空っぽにして歩き、16時過ぎには駅に到着。全員が駅にたどり着いたちょうどその時、只見線が出発してしまった。ここで3時間待ちかと天を仰いだが、バスが1時間後に来ることが分かり、無事帰宅することができた。

振り返り

初めに不安点を三つ挙げたが、一つずつ振り返ろう。

安全圏からの隔絶と軽量化については、概ね成功した。軽量化により長時間行動が可能になり、2泊3日の行動に繋がった。ただし、さらに軽量化できたという反省も浮かび上がった。計画から必然的に推測できた軽量化としては、ガスの軽減がある。結果としては2缶で十分だった。標高の高くない山で、4人用テントに4人が入って生活するため、強い寒さはない。また、日本海側の湿った雪があるので、水作りも手間取らない。以上を考え、軽減ができたはずだ。天気予報から推測できた軽量化としては、ワカン・ストック・たわし・防寒用手袋の削減がある。結果として、以上の装備は使わなかった。残雪期であるから雪は締まっており、天気予報も大雪の予報ではない。軽量化により天気が崩れる前には抜けられるはずだ。以上を読み切ることができれば、削減の判断も可能だったはずだ。この二つを実行していたとすると、一人当たり約1.4kgの削減が可能だったことになる。食糧については、皆各自で工夫して軽量化して臨んでおり、成功だった。

藪漕ぎとルートファインディングについては、成功した。猛烈な藪漕ぎは初めての経験だったが、皆安定して歩けていた。ルートファインディングについては、心配したほどの難しさはなく、むしろ丸見えの稜線を伝っていくだけという感覚だった。GPSについては、現在地確認のために使った。これにより、行程のペースや藪漕ぎの残り距離が明快に分かり、精神的疲労を軽減した。

雪渓の判断については、成功した。恐怖心が先に立つような場面では積極的にアイゼンを使い、クライムダウンも多用することで、無事に行動を終えられた。

全体的に見て、今回は天候に恵まれ、精神面と体力面において充実した山行になった。国道に降り立ったときの皆の表情がその証左である。こういう山行を積み重ねていくことで力がついていくのだろう。一度入山すれば歩き切るしかないルートに入り、無事成功させることができ、記憶に残る山行となったことに満足している。

2015年5月1日金曜日

2015.05.01-03 八甲田スキー登山

記録:伏見修一


メンバー

伏見修一(CL)、黒沢隆弘


5/1 東京~(新幹線)~青森

5/2 晴れ 青森~(バス)~酸ヶ湯温泉BC=大岳環状ルート

11:00南側から入山—11:35樹林帯で小休止—12:51頂上13:25—14:15休憩—15:10下山

5/3 晴れ BC=大岳環状ルート

6:30北側から入山—7:00スキー板を装着—8:00小休止8:50—9:15避難小屋—9:35雪渓滑走11:40—14:00下山

5/4 帰京


「今年のGWは現役だけでスキー登山に行こう」と年初めから決めていた。その時点では双六か八甲田を案に挙げていた。その計画に向け冬春の神楽・乗鞍・会津駒など、何度もOBを交えて経験を積んできた。最終的に八甲田を選択した理由としては、エスケープがとりやすかったからである。また、黒沢が行きたがっていたことや、筆者に個人的因縁があったことも影響している。

行動初日

黒沢の体調が良くなかったことや、明らかに雪がない個所が見受けられる、出発時間が遅いことなどを考慮して、下見を兼ねて登山靴で行動することにした。実際この日入山したルートの中盤は雪がなく夏道むき出しであった。山頂からの眺めは良好。斜面の雪渓を見て滑走するときの楽しみを募らせた。下山したルートには雪が多く残っていた。

行動2日目

昨日の下見も考慮して、昨日と逆側から入山することにした。行動最初に一部藪がむき出しになっている個所があり藪漕ぎもどきも行った。スキー靴なのでバランスがとりにくかった。雪渓では思う存分滑ることができた。下山時には登りの時と比べ明らかに雪が減っていた。藪のあたりではまともに立つことが困難なほどであった。

最終日

午前中に少し滑ってから帰ろうと考えていたが、天候が悪くなりそうであったことに加え、昨日下山時よりもさらに雪が減っていたのでおとなしく温泉につかることにした。

(所感)

今回のスキー登山でBC形式であるならば現役だけでも行えることがある程度証明できたように思う。来年は神楽・八方尾根などバックカントリーに加え栂池から白馬乗鞍や会津駒など少しずつレベルを上げて行けたらと思う。